久保礼子

| 大日向小学校 校長。 1956年生まれ。 九州大学文学部卒業。 福岡県の公立中学校に社会科教諭として33年間勤務する。 退職後の2014年より日本イエナプラン教育協会理事代表を務める(2021年退任)。 大日向小学校には評議員として設立から関与。 2022年4月、校長に就任。 |
暮らし百景Podcast
やっぱり人生「生き様」だ
久保さんはご兄弟はいるんですか?
三姉妹の真ん中です。
あ、なるほど!
誰に言っても納得されますけど(笑)。
好きなように暮らしてます。
真ん中って、なかなかいいポジションですね。
姉が最初の子だから、親はすごく姉に期待するでしょう?

私、全然知らなかったけど、姉はお稽古事を、いっぱいさせられてたって。
私は一つもさせてもらってないんですよ。
二人目って、そういうもんですよね。
親の肩の力もちょうど抜けて、適当に育ててもらえてよかったなあって思ってます。
姉は泣きながらでも、親の言うことをやっぱり聞いてたけれど、私は向かっていって、ケンカしながら自分の道を歩いて。
妹はニコニコしながら、私の後をついてきてましたね。親とはケンカせずにね。
じゃあわりと、伸び伸び過ごしてましたか?
まあ、そうなんでしょうね。
当時はもう、親がやっぱり忙しいから。
あの頃は、戦争の名残りとかを感じたことはなかったんですけど、今振り返ると、いやいや十分、敗戦の空気を引きずってたなって思う。
みんな貧しかったっていう感じ。
全部記憶にあるんです。
テレビが我が家に来た日、洗濯機が来た日、掃除機が来た日、ガスコンロが来た日。
そういうのがまったくない時代を知っている。
そうか。
全部、久保さんの子ども時代に登場したんですね。
そうそう。
あと、母の後ろ姿。
朝起きると、母が冬のどんな寒い時でも、必ず外で火を起こしている姿が、一番記憶に残ってる。
かまどに?
かまどとかいう立派なものがあるような家でもなかったので、七輪に火を起こして。
それを持ってきて、お湯を沸かして、ご飯を作るっていう。
だからもう、母はとにかく働いている姿しか見ていない。
洗濯も全部、洗濯板でやっているし。
それで子供が三人いたら、とても一人ひとりに構ってる余裕はないですね。
そう。
それが、10歳ぐらいから、あれよあれよと変わっていったかなあ。
世の中がどんどん便利になっていって。
そうか、ちょうど両方の時代を知っているわけですね。
小学校って、生徒はたくさんいましたか?
マイホームを建てることになって、北九州市と福岡市の間にある、宗像っていうベッドタウンの街に引っ越したんですけど。
田中角栄の日本列島改造論。
あれで、みんな次々と家を建てたので、もう毎日転校生が来るんです。
4月の段階で、あっという間にクラスの人数が50人になっちゃって。
ぶはははは!
4月だけで、そんなに増えるんですね!

そうそう、のんびり4月に引っ越してくるから、5月になってクラス替えがあったりして。
世の中全体に勢いがありますよね。
もうどんどん右肩上がりに成長していくんだっていう。
うん。
でも中学校は、偏差値で追い込まれた時代で。
毎月テストがあって、毎月順位が貼り出されて。
はい、はい。
で、この偏差値だとこの高校、とかいうのがランク付けされていて。
じゃあ、私はこの学校かな、っていうのでなんとなく行った高校が、面白くなかった。
どうして私はこの学校を選んだのかわからない、ってずっと後悔してて。
学生時代は、勉強は好きだったんですか?
好きとか嫌いとか、考えたこともなかったかもしれない。
もうとにかく、やるしかない。
部活はブラスバンド部に入って、勉強もすっごく一生懸命やってましたけど。
それが当たり前だった。
高校に入ったら、解放されると思ってたんですよ。
でも、もっとだったんですよね。
今度は、大学受験のための勉強になって。
そうそう、そうですね。
何のために勉強するんだろう?とか考え始めたのは、高校の時かもしれない。
それまでは、疑問を持たずに、みんなと同じようにやってきたんですね。
うん。
高校では、勉強を一生懸命したかっていうと、していない。
友達と遊んだかっていうと、実はそれもあまりない。
部活も、中学校の時は一生懸命やったのに、高校のブラスバンド部は夜の9時ぐらいまでやるから、そんなにはやりたくない。
だから、完全に中途半端な高校時代です。
そのぐらいの時は、なんか将来やりたいことってあったんですか?
なかった。
ただ、憧れの先生がいて。
英語の先生だったんだけど、メガネで、髪ボサボサの。
どの先生も「勉強しろ、勉強しろ」っていう中で、その先生は「今日はね、朝来るとき風を感じてきた」とか。
山登りの好きな人で、自分が山に登った時の話を唐突とするみたいなね。
なんかなあ、やっぱり人生を生きていくって、こういうことだよなって、その先生の生き様を見て思って。
しょっちゅう、その先生のところに行って、人生ってなんだろうとか、そんな話をふっかけていましたね。
本当に朴訥とした、年配の先生だったんだけど、なんか気が合っちゃったんですよ。
その先生に会ったことで、その後の人生に何か影響はあったんですか?

・・・ウフッ。
(ウフッ?)
大学に入って最初の日、クラスメイトへの自己紹介の中で。
「私はいいおばあちゃんになりたいと思って、この大学に来ました」って言ったのを覚えているんです。
たぶんそれも、その先生の生き様を見て、やっぱり人生「何かになる」とかじゃなくて生き様だ、みたいに思ってたから。
年とったときに、満足する生き方ができてたらいいなって、それを見つけるために大学にきたんです。
そういう自己紹介をしたんですね。
で、その自己紹介のときに、「宇宙を見たことがありますか?」って言った人がいて。
その人は物理部で、星の観察をするために山に登ったり、山歩きをしたりする人で。
「星と星との間には距離があるんです。澄んだ山の上からずっと星空を見ていたら、その星と星との距離が見えてきます。それが宇宙です」って言った人がいて。
面白い。
その人が今の夫です。

ぶははははは!
最高の出会いですね、それ。
その話を聞いた時に、その人と先生が、完全につながったんですよ。
同じ波長を感じる。
そうそうそう。
へええーー、面白い。
だから、その先生の影響を受けましたか?って聞かれたら、やっぱり結局受けてるなあと思って。
そうですね。
そこまではっきりと思ってなかったけど、好きだなって。
先生のあんな生き方いいな、なんか好きだなって思ってたんだけど、異性に恋をするような憧れ方では全然なくて、人としての憧れだった。
なんか、その先生と似た人に大学で出会ったなって、その日に思ってね。
で、すごい仲良くなって。
ただの友達だったんですけどね、結婚しちゃいました。
いやー、運命的だなあ。
この前、69歳になった誕生日の時、夫に「私、もう69よ。70近くになるまで仕事してるなんて思いもしなかったよね」という話をしたら、「夢がかなって良かったね」って言ったんですよね。
大学入った時に、私が自己紹介した言葉を彼は覚えていたんです。
「いいおばあちゃんになりたいって言ってたよね。」って。
今こうやって、年を重ねてもやりたいことできてるんだから、いいおばあちゃんになってるってことですよね。
そうそう。
いくつになっても、自分だけの満足じゃなくて、誰かが喜んでくれることができてたら、最高じゃないですか。
振り返ったら、そういうポジションに今いれているなあ、ありがたいなあ、って思って。
そうか。
50年越しで夢がかなってるという。
なので、あとは「機嫌よく死にたい」っていうのがそこに書いていることで。

(久保さんが子どもたちからインタビューを受けたときに出た言葉)
「機嫌よく死にたい」が、これからの目標なんですね。
そうそう。
一気に話が進みましたね。
そうですね、臨終のところまで一気に(笑)。
で、その灰色の時代、勉強も遊びも部活も中途半端にしかやらなかった私は、大学受験で全部失敗するんですよ。
浪人したんですか?
そう。
高校入学したときは一番で入ってたから、もうずっと語り継がれたみたいです。
「一番で入っても、3年サボったら、大学どこにも入れないぞ」って。
そういう見本になっちゃったんですね。
父は新日本製鉄というところの、石炭をくべるような職工さんでね。
汗流して働く一鉱員ですよ。
当時の時代だから、「職工の娘を浪人させるとか、世間が笑う」って。
「お前すぐ働け」って言われた。
そうですか!
女の子を浪人までさせて大学にやるっていうのは、社会の中でいうとハイソサイエティーの人たちの選択で。
「自分たちみたいな地位のものは、娘を大学にやっても、嫁のもらい手がなくなるだけだ」って散々言われましたから。
大学に行くと嫁のもらい手がなくなる、って言われた時代だったんですね。
しかも浪人なんかしたら、もう完全に嫁に行けなくなる、というセオリーですよ。
「世間が笑う。就職しろ」って言われて。
言われて、どうしたんですか?
「1年だけお願いします」って頼み込んで。
浪人させてもらって。
許してくれたんですね。
浪人して、もう一回挑戦するのを。
許さざるを得なかったんでしょうね。
でも母はね、割とさばけた人だったから。
「3人娘がおるんやから、1人ぐらい、いいんやない」っていう感じでたぶん言ったと思います。
その、浪人時代の一年は、私は自分を褒めてあげています。
頑張りましたか?
大変規則正しく勉強しました。
毎朝7時に起きて。
あれ?
7時にしか起きてないな・・。
そうですね、普通ですね、わりと(笑)。
7時に起きてから30分、英単語を全部めくって。
で、7時半から準備して、8時半には予備校の教室の最前列に座って。
4時半に終わって、それからうちに帰って、家事手伝いをして。
夜の7時から12時まで5時間勉強して、12時には寝ます、っていう一年にしました。
そうか、もうほとんど勉強ばっかりしていた1年ですね。
ほとんどそうですね。
でも、入試直前にはもうやっぱりすごいプレッシャーで。
もう二度目はないと思っていたし、一回目落ちてるから、通るというイメージがあまりなくて、怖くて怖くて。
そこまでしてでも、大学には行きたかったんですか?
それしか見えてなかった。
他の道は考えてなかったんでしょうね。
大学に行って、やりたいことはあった?

ないんですよ。
それなのに、そんなに頑張れたんですね。
だから、もうなんか、恐ろしいですよね。
学校行って、テストして、順位を出されて偏差値出されて。
その中でずっとやってきてるから、その尺度しか知らない。
そうか、なるほど。
で、合格した大学が九州大学で、九州の中では旧帝大でね。
自分が行きたかったところだったから、そこはすごくしっくりきて。
ああ・・でも、そこからもいろいろぐちゃぐちゃ悩んでましたね。
自分がやりたいものわかんないし。
で、世間は突然、九大生って言った途端に「うわーっ」て言うんですよね。
すごいねって。
いやいや、私は何にも変わっていません。
もしかして落ちてたら、私は「受かりきれなかったやつ」よね。
高校に一番で入っても、大学全部落ちたやつ。
そうか。
別に自分が変わったわけでもないのに、大学に入ったかどうかだけで。
そう。
そういう評価だけがガラッと変わって。
私自身、世の中のこと何も知らないのに、「ああ、ごめんなさい」っていう感じでしたね。
で、逆に世の中のことをちゃんと知らないといけないと思ったかなあ。
で、社会学科っていうところに行って。
いろいろ世の中について、見たり聞いたりしたことを調査するっていうような、そういう学科に行った。
そうか、大学時代から、世の中を知りたいというような方向に行ったんですね。
社会科大嫌いだったんですよ、中学、高校まで。
何が面白くてこんなことを、この先生を教えてるんだろうと思った。
中学校の授業だと、つまんないですよね。
ただ座学で聞いてるだけだとよくわからないし。
そうそう。
でも大学に入って、いや、社会科こそ一番学ぶべきことだ、と思っちゃったり。
大学生活の中では、何かやりたいことは見つかったんですか?
部活をやってみましたけど、そんなにのめり込めず。
何になりたいかも決まってなかったから。
卒業の頃は?
どう思ってたんですか?
いいおばあちゃんになりたい、みたいにと思ってたから、一生働いていける仕事に就きたいなと思ったんですよ。
それから、男女差別がないところがいいなって。
アルバイトはいろんなことをやってみて。
でも、だいたいどこの職場に行っても、女の子は愛嬌が良くて、かわいくて、気の利く子が望まれるっていう。
テレビ局でもアルバイトしたんだけど、そこですらそうでしたね。
ああ、でも、そうだったんでしょうね。
お嫁さん候補みたいな感じですもんね。
テレビ局なんか、もっと問題意識を持ってるところかなと思ったら、いやいやいや。
アナウンサーさんなんか、絶対この人の方が能力があると思う人よりは、やっぱりちょっと愛嬌がある人の方がね、重宝される。
それを、ディレクターさんとか、現場の人につぶやいたら、「そんなもんだよ、世の中」とか言われて。
「はぁー?」と思って、仕方なしに教育実習に行ったんですね。
こんな企業には勤めてられんと。
そう。
で、教育実習に行ったら、めちゃくちゃ面白かった。
あ、そうですか!
それは、小学校ですか?
高校。
高校生と話すの面白かったあ。
倫理社会の授業を担当して、今まで真面目に勉強したことなかったけど、初めて教材研究のためにいろいろ本を読んだりして、うわあ面白いと思って。
で、授業をしたら、生徒たちが一生懸命に聞いてくれるわけですよ。
ご清聴ありがとう!みたいな。

(笑)すごいですね。
倫理の授業をちゃんと聞いてくれるなんて。
うん、なんか寝てた子もいたみたいだけど。
指導教官が「いや、面白かったよ。あんな面白い指導でも寝るやつがおるね」って言ってたから。
でも、誰が満足したかって、私が満足した。
面白かったあ、って。
自分でもいい授業をしたっていう感覚だったんですね。
起承転結を考えてね。
「起」で、子どもたちを「えっ?」てさせて、ちょっとそれを膨らませて。
「転」で、「ほらね」って投げかけて、ちょっと混乱させて。
で、最後、結論のところで、「ああ!」ってなる。
たった50分の中で、このストーリーが生まれるというのが、もう。
すごいプレゼンですね!
倫理の授業で、そんなストーリーを入れられるなんて。
いや、でももう何でも同じ。
その時以来、何の授業でもそうだなと思ってます。
それがじゃあ成功体験で、「これだ!」ってなったんですね。
そう、これは面白い、と思って。
先生になることを決めた剱岳登山
あ、思い出した。でも、それですぐ先生にはならなかったんだ。
えええ?
面白い、と思って教員採用試験を受けたけど、試験勉強したのが1か月前からで、見事にまたここでも失敗をし。
はい、はい。
どうしようと思っていた時に、山に登ったんですね。
やっぱり高校の先生の影響があって。
なんか山に行きたい、と思ったんですよ。
で、それに連れて行ってくれたのが、また、今の夫ね。
そうですか!
そうそうそう。
山岳部だったので「連れていくよ」って言ってくれて。
「え、いいの!?」って、一緒に行くことになってね。
家を出るときは、ワンピースとボストンバックとハイヒールで「友達と信州に旅行に行ってきまーす」とか言って出発して。

ぶはははは!
そうか、親にも内緒で行ったんですね。
行ったんですよ。
剱岳です。
剱岳!
そんな本格的なところに。
そんなところとは、夢にも思わず。
「アルプスいいなー」って言ったら、連れて行かれたのがそこで。
「どの山に登るの?」って聞いたときに、「あれ」って指差した山を見て、「あれは、シカかサルしかいない山じゃないの」って言いました。
その方は、山登りは得意な人だったんですか?
山岳部だったから。
星を見るために山に登っていたり。
あ、そうかそうか。
じゃあもう、ほんとに山が大好きな人なんですね。
そうそう。
それで、一緒に行ったんですよ。
そのペースについていけたんですか?

まあ、若いから。
若いから!
普段から、ちょっと走ったりしてたし。
若いってすごいですよね。
ただ、山に入ったその日が、集中豪雨で。
テントの周りが全部沢になって、もう怖くて。
雷が地下で鳴っているみたいな。
あ、私はこのままここで死ぬんだ。
親に何も言ってないけどどうしよう、とか考えて、すごく後悔して。
それって、まだ山登りをやり始めの時ですか?
はじめての登山。
はじめての登山が剱岳!
めちゃくちゃですね(笑)。
外に出られずに、テントの中に、まる2日いたかな。
最悪な経験ですね、最初から。
いや、でも若いし。
そこで、いま夫になった人と、いろんな話をして。
雷があんまり鳴るので怖いから、知ってる歌を二人で全部歌おうみたいな。
そんなノリで、夜になって雨があがって、外に出てみたら。
すっごい星空で!天の川がはっきりと見えた。
雨が洗い流したばかりで、綺麗な空なんですね。
で、次の日に、剱岳の山頂まで登って。
降りるときには、先生になろうと思ってました。
え!?
なんでなんで。
先生が面白い、と思ったのに先生になろうって思えなかったのは、10歳の時に親から「先生になれ」って言われたことがあって。
「なんで、お母さんに決められなならんの」って、先生にだけはならない、って宣言してたんですね。
そうか、逆に反発しちゃったんですね。
だから、先生になるって親に言うのがイヤだったのと、あと、もっとかっこいい仕事をしたいと思って。
社会学とかいうと、やっぱりみんなマスコミ関係が多かったんですよ。
それに比べてなんか地味、みたいな感じで、見栄とかプライドとか、そういうものが実はあって。
でも、その山登りの体験で、テント張るのも怖かったし、近くで雷が鳴ってるのも怖かったし。
それが通り過ぎた後の、あのスカーンとした空を見たときに、「なんだ、なんでこんなに余計なことばっかり、私考えてんだろう」と思って。
やりたいようにやればいいじゃんって、すっごい素直に思えたんです。
そうか、自分の気持ちに正直になろうって思えたんですね。
そうそうそう。
じゃあ、それから、また勉強ですか。
卒業した後は、遊ぶわけにいかないから、講師をしてました。
教育委員会に行って、非常勤講師の仕事があるかって尋ねたら、すぐ仕事があって。
それがね、通信制高校だったんですよね。
だから、生徒の平均年齢は30歳という。
へええーー。

当時の通信制高校は、学校に行きたかったけど行けなかった人たちが集まっていた。
中卒で仕事に就いて、職場で昇給ができないとか、給料が安いとか、そういうことで、やっぱり高校卒の資格を取りたいっていう人たち。
またそれも、面白そうな場所ですね。
自分より年上の人が多かったですか?
年上ばっかり。
みんな、先生先生、って可愛がってくれたけど。
通信制だから、月に一回スクーリングがあって、その日をすごく大事にしていて。
授業の後、なんかなあ、弁論大会じゃないけど、学生が自分のことを語るっていうのが、ちょこちょこあって。
みんなもう、本当に苦労してるんだよ。
そうか、普通の学生と違って、社会人としての経験があるわけですもんね。
そんな中で、その苦労をね、みんな笑い飛ばしながら生きてるんですよ。
だから、ここで学んでいて、今、学生っていうすごい楽しい時代を謳歌している、とかね。
そんな人の話をいっぱい聞いて。
また、本当、世の中のことを知れたし。
そこでの1年も大きかったです。
いや、そうでしょうね。
長距離トラックの運ちゃんがいたから、「乗せて」って言って、配送の仕事を体験させてもらったり。
ぶはははは!
スゴい。
「いいよ。朝3時集合ね」って言われて。
そのくらいから走らないと、渋滞して仕事にならないよって。
仕事の現場についていったんですね。
大きなトラックの助手席から見てると、「そこのけそこのけ」みたいに車をかきわけて行って、「あ、いいねえこれ!」って。
ちっちゃな会社がどんだけ理不尽かみたいな話も、その中で聞いて。
大きな親会社がいくらでも仕事を引受ける。
自分たちでできる時は、自分たちでやる。
できない仕事は下に回す。
そこができない時は、さらに下に回す。
トラックの運ちゃんは、その孫請け会社で働いてたから、仕事が来たら絶対に、どんなに苦しくても受けなければいけないという。
でも来ない時は全然来ないんだ、って。
で、間にこう、どんどん会社が入るから、自分たちがもらう給料と、親会社でもらう給料は全然違う。
で、自分は中卒だから、今の会社にしか行けないんだって。
トラックの中で、そんな話を聞いてた。
タバコや牛乳瓶が飛び交う学校
そんな1年間があって、次の年から先生ですか?そう。
晴れて、社会科の先生になりましたね。
小中高の、どの先生ですか?
中学校。
私、自分がそんなに勉強してないから、高校の先生になるほど専門性がないと思ってたんですよ。
先生になる気、全然なかったので、好きなことやってたから。
それで中学校なら大丈夫かなと思って、中学の教員試験を受けようとしたんです。
そしたら、周りからすごく反対されて。
「今、中学生がどんな状態かわかっとるんね?」って。
どんな状態だったんです?
そりゃ、校内暴力の真っただ中。
1980年代ですから。
ああ、そうか!
ツッパリだの不良だのの時代ですよね。
そういう時代、そういう時代。
うわー、コワ!
そんな時代の中学校に若い女の先生が入っていったら、大変なことになりそう。
そう、そんなふうに言われたこともたくさん。
でもなんかね、自分で見てないものはさ、言われたって、実感は湧かず。
「そうか」とか言いながら中学校を受けて。
ほんと、久保さん、自分のペースを崩さないですよね(笑)。

最初に赴任した学校はもう、田舎の学校で。
そんな、荒れてることなかったですよ。
かわいい中学生でした。
田舎でも、ヤンキーのたまり場みたいな学校もあったんでしょうけど。
いい場所に行ったんですね。
そうですね。
素朴な学校。
今でも、その時の生徒に会いますよ。
55歳くらいになるんじゃないかな?
みんな、おじさんおばさん。
孫の話なんかしちゃって。
もうそのぐらいの年になると、生徒も先生も関係ないですね。
じゃあ、最初に行った学校は良かったですか。
でも、もちろん未熟だから、反抗されてとかいうのはありますよ。
だって、年もそんな変わんないですもんね。
そうね。
授業を抜け出されて、田んぼの中まで追いかけまわしたりね。
逆に、なんかなあ、「今日つまんないね、みんなで散歩でも行く?」とか。
もう、その頃は若いから。
そんなこと今なら絶対しないけど、まあ、平気でやれた時代でもあったかな。
「今日の授業はじゃあ、古墳を見に行くってことにして、外で授業をやろう」とか言って。
社会科は、それがいいですね。
外に出ても、実習にできる。
そうそうそう。
で、子どもたちを連れて行って、帰ってきたら、管理職からめちゃくちゃ怒られて。
「そういうものはちゃんと届け出てからやるんです」と。
ぶはははは!
そうか、勝手にやって事後報告じゃダメなんだ。
連れて行って、帰ってきたら1人足りないとかね。
泣きながら追いかけてきたから、「どうした?」って聞いたら、「気持ちよくて昼寝して、目が覚めたら誰もいなかった」って。
もうヒヤヒヤですね、面白い。
今よりだいぶ自由な時代ですね。
そう、まだまだ自由。
で、次に行った学校が、大変だった。
教室でタバコ吸ってるとか。
スゴい。
お昼が近づいたら、あちこちでガッチャンガッチャン音がするんですよ。
牛乳が届くんですね。
まだ瓶入りの牛乳だったんだけど。
届いたら悪い連中がガッと行って、飲み終わった牛乳瓶をポーンと投げるんです。
その、牛乳瓶の音(笑)。
すごいなあ。
生徒がこうやって、目の前でタバコを指にはさんでるのを見つけて。
「あんた、タバコ吸いよらん?」って言ったら、「吸ってねえし」って。

現行犯でもそこまで開き直るんですね!
「持ってるだけで、吸ってねえし。お前、生徒疑うんか?」みたいな。
吸ってるとこ見たんか?って。
そうそう。
授業を始めようとしたらトランプしていて。
「しまいなさい」って言っても聞かないから、私がサッと片付けて、黒板に字を書こうとしたら、後ろから物が飛んでくるとかね。
「さっき、ちょうどいいところやったのに。俺が勝っとったのに」とか言って、消しゴム投げてくるんですよ。
うわあ。
っていうような学校。
それはどうするんですか?
怖い体育の先生が締め上げるとか?
もう、そこを超えた段階。
そういうやり方でおさまっている時は、そこまでならないから。
そこを超えられたら、もうそんなになっちゃう。
もうじゃあ、誰も止められない。
そうそう。
その時は、女性であることが私には強みだったの。
え?
その当時のワルは、強い人に向かって行ってたから、その体育の先生とかに向かっていくんですね。
そうか、じゃあ逆に、女の先生に手をあげるのはカッコ悪いみたいな。
私はそうやってトランプを取り上げるとかしても、「お前、女だから俺たちが手出さんと思って、なめとろうが」みたいに言われて、「べつに!」とか言って。
そんな時代。
いやー、大変ですね。
なんかもう、そうなると楽しいどころじゃないですね。そもそも授業聞かないんだから。
そうね。
全員がこっち向いている瞬間って、50分の中の、正味10分ぐらいかな。
でも、10分間ぐらいはあるんですね。
あるんですよ。
それ以外の時間は、「なんとかやろ!かんとかやろ!」って言い合ってるとか、何か没収してるとか。
あとは、もう黒板にね、その日の板書項目を全部書いてました。
綺麗な字で、わかりやすく。
ノートを取っていれば、わかるような状態になってはいるんですね。
そう。
それに巻き込まれたくない子は、丁寧にノートをとって。
そうか。
ちゃんと勉強したい人には、やっぱり勉強をさせてあげないと。
でね、隙があるんです。
みんながこっちに気が向くような瞬間が。
その時に、要点を押さえて、パンパンパンパンパンって一気に教えて。
その10分間で、一コマ分の授業を全部やっちゃうんですね。
そうそう。
そうすると、授業を聞きたい子や、わかりたいと思っている子も納得してくれた。
全員がふざけたいわけじゃないから。
クラスの中のもう、どうしようもないのが3人か4人いて。
それに巻かれる子が4〜5人いたのかな。
だから残り20人は、勉強したいんですよ。
うんうん。
だけど、この人たちが勝手してたら、授業にならないので。
勉強したいほうを保証するために、10分ぐらいは、私のペースで話せる時間は確保できていた。
いやあー、面白いです。
面白いですね。
それが1年間でしたね。
あ、1年間?
大変だったのは1年間。
最後は、卒業式に警察が入って終わるっていう。
(笑)終わりまでそんな感じで。
その人たちが卒業して、その後はもう、落ち着いた。
あ、その学年だけが荒れてたんですか。
学年で。
学校全体が悪くなるところまでは、まだ私行ったことがない。
そんな学校もきっとあると思うけれども。
あるでしょうね。
その状態は、1年だけで終わったんですね。
その時、私、ちょっとこれも強みだったけど、妊娠していて赤ちゃんがいたんですよ。
だから、あの子どもたち、やっぱり手を出せなかった。
さすがにそれはそうですね。
で、まあ大事にしてくれた。
それから産休に入って。
復帰してその人たちが3年生になったときに、どの学年を希望しますか?って聞かれて、私は3年生を希望しますって言ったんです。
そしたら、その職員室でみんなが「ええーー!?」って言ったんですよ。
何かあったんですか?
そう、何があったんだろうと思って、その学年、みんなが集まるところに行ってみて、「なるほど!」って思って。
誰も話聞いてないの。
たった1年で、そんな変わっちゃうんですか?

半年で。
たった半年で一気に変わった。
そうなんだ。
いや、難しい年頃ですね。
こうやって語ってしまったら面白いよね。
面白いですね。
そうか、そんな時代だったんですね。
しかもね、私、産休明けだからね。
子ども保育園に預けて。
そうですね、子供ちっちゃいから。
まあ、帰るのが12時とかで。
夜の12時!?
保育園に迎えに行って、連れてきて、職員室にカゴで置いておくとか。
さすがに、12時までは、そんなにないけど。
夫がもう帰っている時間だったら、子供を家に連れて行って、また学校に戻って職員会議とか。
そんなに仕事が忙しいんですか?
仕事がっていうか、もうそんだけぐちゃぐちゃだから。問題が毎日起きちゃうから。
うわー!大変だ。
大変だったのが、28歳か29歳。
その後はもう、平和な。
あ、その後は平和なんですか?
平和な学校に行かせてもらいましたね。
じゃ、荒れてた学校にいたのは短期間なんですね。
よかったです。
教員生活が、ほぼそんなだったら大変だから。
でも、本当に、なんかな。
授業で初めて出会う人たちに、なめられたらおしまいという意識が。
あ、それが染み付いちゃって。
そう。
いつも勝負!のつもりでいきました。
イエナプランとの出会い
その後は、ずっとじゃあもう、中学校の先生ですね。その中で、公教育への疑問であるとか、もっとこうしたいみたいなのを、考えたときはありましたか?
それがだからね、50歳ぐらいの時かな。
結構経ってからですね。
そうそうそう。
まあ、子どもたちは、なんかこう質もだんだん変わってくるんだけど、みんなお利口さんになってくる。
そうですか。
90年代か2000年代か、あの辺でもう本当にお利口になってくるんですけど。
そのときに、子どもをお客さんにしたなあと思って。
「今日の授業、面白かった」って、子どもから評価されると、「よし」と思うし。
「今日イマイチやったね」って言われて、「そう?」とか言いながら、歴史とか年表とかの学習プリントを自分なりに工夫して作るわけですよ。
子どもは「これ覚えたらテスト何点取れる?」って言って、同じプリントを、何度も何度も自主的にやるのね。
「もう一枚ちょうだい、もう一回やる」って。
頑張るなぁと思いつつも、この人たちに一体、何を私は学ばせているんだろう?みたいなのを思っちゃったのが、40代後半かな。
みんな真面目なんですね。
言われたことは、ちゃんとやる。
そう、言われたことは、ちゃんとやる。
ただ、私と全く一緒で、高校生になった子たちが、「自分が何者かわからない」「何したいかわからない」って言ってくることが多々あったんですね。
はい。

その気持ちわかる!と思って。
あっ、そうですよね。
その気持ちわかる、って言いながら。
いや、そもそも本当は学生時代にそんなことって考えて、やりたいものを持って、大学に行くべきだよなぁと思って。
私と同じことじゃん、この人たち。
そうか、久保さん、同じことを経験したから、その気持ちが分かるんですね。
なんか間違えてるなぁって思っていた頃に、リヒテルズさんの本が出ちゃったんです。
出ちゃった。
私、リヒテルズさんの後輩なんですよね。
彼女は九大の社会学の先輩で、それで仲良しだったんですよ。
そうだったんですか!
だから、子育てもだいたい同じ時期にやっていて。
うちの子が小学生、向こうも小学生ぐらいの時に、ご家族でうちに遊びに来て。
彼女のお子さんのアルバートは、すっごいシャイだったのね。
子供同士遊んでる様子とか見てて、シャイだよねとか思いながら、日本の子どももオランダの子どもも、そんなに違わないな、と思ってたんだけれど。
息子が大学生になった年に、家族みんなでオランダに旅行に行ったんです。
で、今度はリヒテルズさん家にうちの家族が行ったら、そこであのシャイだった子がですよ、やたら大人になってたんですよ。
へええー。
お料理をキッチンで作ってくれていて、私たちはリビングで待ってるんだけど。
その間に接待するのは、高校3年生の彼で、もう話題がちゃんと大人の話ができるんですよね。
食事の席になって、リヒテルズさんのご主人もいて。
うちの息子は大学の建築学科に入っていたんだけど、アルバートは「もし、君のクライアントが、君の理想とは全然違うことを要求してきたとしたら、君はどう対応する?」とかって、普通に話しかけてきて。
うちの息子は「???」って固まっちゃって。
そしたら、アルバートは、「オランダの学校なんて、こんなことばっかりやってるから、全然気にしなくていいよ」ってフォローしてくれて。
リヒテルズさんは「言葉は日本語でいいんだよ。英語に訳すから」って言うんだけど。
いやいや、言葉の問題じゃない。
ああーー。
そもそも考えたこともない。
その席での出来事が、すごく私にはショッキングで。
教育の違いって、こんなだなあと思ったんですよ。
うちの息子も、一応レールは外さずに順当に来て、素直に、よく育ったと思うけれど。
娘さんもいて、教科書を見せてもらって、私も日本の教科書を持って行ってたんで見比べたら、彼女が日本の教科書を見て「絵本みたい」って言ったんですよ。
言われてみれば、そうですよ。
写真がダーンと出てて、大きな字で要点だけ書いている本を、私たちは隅から隅まで教えるわけです。
端にちょっと出てるコメントすらね、そこにも触れてなかったら、「先生が教えてくれなかったから、入試に落ちた」なんて言われちゃうわけですよ。
そうなると、もう、詳しいことなんて書けないから、絵本みたいな教科書になっちゃう。
で、彼女の教科書を見せてもらったら、こんな分厚くて、細かな字でいっぱい書いてある。
「こんなの全部教えられないよね?」って言ったら、「教えてもらわないよ」って。
いついつまでに、ここまで読んでおくように、って言われて、読んできたものを元にディベートするのが授業だって。
ほおおーー。
これは大人度が変わるはずだわと思って。
そんなことを、毎日やってるんだからね。
リヒテルズさんも当時、日本の教育とオランダの教育の、あまりの違いをずっと考えていたし。
で、その後、『オランダの教育』っていう本を書き、イエナプランの本を書き。
なるほど。

で、その本を読んだときに、ああ、なんかやっぱり日本の教育を変えんとダメだなと思って。
そのときに、あ、自分は子どもを消費者にしているだけだな、と思っちゃったんですよね。
自分で考えなくても済んじゃうんですもんね。
用意されたプリントを、そのままやってるだけで。
そう、覚えてれば、穴埋めができれば、テストの点数取れちゃうんですよ。
で、その『オランダの教育』の本で、リヒテルズさんは、いろいろな教育の中でもイエナプランが一番いいと思う、っていうことを言っていて。
その後で『オランダの教育改革はなぜ成功したのか』っていう本を書いたんですよね。
で、それを読んだ時に、イエナプラン面白い!と思って。
でも読むだけじゃわかんない、オランダ行きたいなぁっていう思いが湧いて。
そして、その後、転勤になったんですね。
はい。
で、その転勤した先の学校で、中学2年生の担任になったんですけど、実はうまくいかなくて。
それまでの経験で、私はちょっとうまくやれる人になっていて、そのモードで新しい学校に来たんです。
この中学校の2年生は、小学校の時から難しい学年で、担任の先生がもう毎回変わるみたいな筋金入りの問題学年だったから、強い指導力のある人たちがズラっといて、そこに私は入っていた。
うんうん。
自分はベテランだし、私は大丈夫よっていう気持ちでいました。
でも、今までやっていたようなことが、なかなか子どもたちに通用しないで。
その前の学校まで、私はもう、なんかなあ、私が伝えたいことと違う振る舞いが教室にあった時は、不機嫌にしてたんですね。
(笑)不機嫌にしてた。
何を言うわけでもなく、察しろよ、と。
そう、「自分で考えろよ」と。
そしたら「あっ、レイコちゃん機嫌悪いよ。なんでなんで?もしかしてあの時のあれやない?」とか言って、子どもたちがバーッと自分で動いて。
で、「ごめん」とか言いに来てた。
お、なんか、いい子たちじゃないですか。
そうですよ、そうですよ。
だから、ちょっとね、偉そうになってたんです。
それを、新しい学校でも通用するかのように。
丁寧に、「こうなんじゃない?」「一緒に考えよう」っていう声のかけ方ではなくて、「おかしいよね、あんたたち」という、常に説教で。
今考えたら、子どもをある意味、裏切ったかもしれない。
出会った時は、最初から私そんなタイプじゃなかったから、「もしかしたら、この先生はわかってくれる人かもしれない」ってね、多分、ちょっと期待させてたフシがある。
なのに、ふたを開けたら、なんてことはない、機嫌悪く叱り倒すじゃないかと。
それでね、どんどん子どもの気持ちが離れていったんですよ。
で、子どもの気持ちが離れていくことが分かってきたら、教室の前に立つのが怖くなった。
いや、そうですよね。
何を言っても跳ね返される。
何を言っても、なんか素直に入っていかないと思ったら、本当にもうツラくて。
それでも、授業だけはできるというね。
たしかに授業は、自分一人でも、しゃべってたら一応終わりますからね。

で、win-winなわけですよ、子どもにとっては評価がつくから。
私も、授業だけはなんとか行くんだけど。
でも、学級担任として、子どもとの関係性とか本当に作れなくて、毎日傷ついてて。
で、辞めようと思ったんです。
「辞めます」って、校長先生のところに行ったんだけど、校長が「ちょっと待って」って止めてくれたのね。
「あんたみたいに授業をちゃんとする人が辞めないといけないっていう、そんな学校を作ったのは、自分の責任だから」と、3月31日までこれを受け取れないって言ったんですよね。
「え?でも、4月1日に来なかったらどうするんですか?」って言ったら、「もうその時はしょうがない、なんとかする」っていう。
「うわあー」という感じで、辞めきれなかった。
そうですか。
でも「その代わりに、休んでオランダに行きたい」って言ったら、「あ、それならいいよ」と。
休んで大学院に行ってオランダに行って、それでも辞めようっていう気持ちが変わらなければ、その時は辞めていい。
でも、今うまくいかないから辞めるっていう辞め方はしてほしくない、っていうことで、その次の年は、学校にはいたけど、担任はせずに。
進路指導の担当ってことで、ちょっと俯瞰した立場で生徒指導をするような立場に立って。
担任外れたら、怖くはなくなったのね。
そうか、1対1で直接話すぶんには怖くない。
そう。
その人たちが、卒業した後に会いに来たんだけど、「あの時、私はもうツラくてね。校長先生に辞めるって言いに行ったんだよ」って言ったら、みんなびっくりしてた。
「リスペクトしとったよ」って言うんですよ。
「どこが!?」って思って。
私は、傷つけられたっていう記憶しかなかったから。
クラスとしてじゃなく、一人ひとりには、気持ちが通じてたんですね。
そうだし、あの子たちにはそこまでの思いはなくて、私が勝手に怖がって、勝手に傷ついてただけだった。
で、学校を休んだ後、大学院に行ってた時に「私、傷つけられたと思ってたけど、傷つけたかもしれない。」って気がついて。
あ、逆に自分のほうが傷つけていた。
なんであの時、あんなイヤな言い方したかなぁとか。
あなたたちのせいではない、私のせいでした。って思えるまでに2年かかりました。
2年間学校を休んで、大学院に行って、その時にオランダにも行ったりして、イエナプランのことを勉強して。
で、また現場に戻って、4年勤めたかな。
大学院に行ってる間は、もとの中学校にも所属してる状態だったんですか?
籍は残したまま勉強に行ける、「自己啓発のための休職」っていう仕組みがあったんですよ。
で、たまたまペーターセンの研究をしてらっしゃる先生がいる大学が近くにあったので、そこのゼミ生になって。
そのゼミでじゃあ、イエナプランのことも勉強するっていう?
イエナプランというより、ペーターセンの研究でした。
一方で、まだ日本ではそんなにイエナプランの研究はされていなかったから、リヒテルズさんとはずっとやりとりしながら、イエナプランのことは、ずいぶん教わって。
休んだ後は、また元の学校に戻ったんですか?
同じ学校に戻ったんですね。
私は、他の学校に戻る予定だったんです。
その時の校長先生が、「せっかくだから、うちの学校がよかろう」って言って。
でもそこに戻ったら、その学校では6年目になるので。
6年経ったら転勤になるっていうのは、もう暗黙の了解としてあったから、1年でまた転勤はイヤだなって言ったんですよ。
そしたら、「いや、大学院にいた2年間は計算しないから、あと3年居られるよ」って言ってもらったので、それなら、って戻ったんです。
なのに、次の年に転勤になった。
えええー。
3年居られるって言ったのに。
裏切られたー!って大騒ぎした。
しかも、その転勤先が、ずっとやってきた宗像の隣りの市なんですね。
そこには知り合いも何もいないわけですよ。
イチからやり直し。
そう、そこにポンとやられちゃって。
しかも退職まで、もう残りなかったから、私は30年ずっとやってきたのと違う場所で退職するのかと思って、愕然として。
ホントですね。
もう、あったまにきて。
ぶはははは!
信じてたのに。

そうそう、それで「まだここに残れるって言ったじゃないですか!なんで私、転勤なんですか」って校長室に駆け込んで行って。
校長が「まあまあまあ、落ち着いて、ちょっといろいろ話すから、そこ座って」って言うのに、「もういいです!」って、座りもせず、職員室に戻って。
みんな、私がすごい顔しているから、「どうした?」って集まってきて。
ワーって泣いて、「隣りの市に転勤になった」って言ったら、みんな「ひどい、ひどい」って言ってくれたんだけど。
それで私は、隣りの市に出たんですね。
その学校が実は、まだ若い時にいた、牛乳瓶ガッチャンの学校だったんです。
ええ?
その学校に、また戻ったんですね。
そう。授業は楽しかった。
オランダとかで得た、子どもがいかに自立して動くかっていう、そういうの。
サークルになって授業するとか、いろんなゲームを入れるとか、ディベートするとかね。
そんなことがいっぱいできたので。
ただ、転勤希望はもう、ちょうどうちの夫が入院したりしてたので、「夫が入院して、なんかとっても怖くて宗像市に戻りたい」みたいに希望を出した。
(笑)いろいろ、理由をこじつけて。
そうそう、そしたら、見事ちゃんと翌年は戻れました。
あ、そうですか!
じゃあ、理想の、自分の思い描いたところで、最後の花道を飾れたわけですね。
そうですね。
そのとき、ほんとは定年まであと5年あったのかな。
だから5年間ここかな、と思ってたんですけどね。
結構面白い学校で。
中規模校だったから、授業実数がすごい多いんですよ。
その前の学校だと、1週間に16時間の授業でやっていけるのが、ここだと20時間を超える。
そして、学年主任になったから、その会議がいっぱい入って、教材を研究する時間が全く取れずに、土日はほぼ一日、家で教材作ってますみたいな感じだった。
学校で作る時間ないんですね。
まったくなかった。
もうちょっと授業実数を減らしてほしいということを、ずっと校長先生に訴えるけど、「仕方がないんだよねー」って、もう何度訴えてもそれしか返ってこない。
で、なんかもういいかなーと。
もう辞めよう、って思って。
そうか、もう定年を待たずに、自分から辞めようと。
そう、「辞めまーす!」って言ったら、今度は受け入れてもらえて。
ああ、よかった。
それで退職したんですね。
だからある意味、燃え尽き症候群でしたね。
もう、やりきった?
うん。
で、その辞めた年に、日本イエナプラン教育協会っていうのが立ち上がって。
あ、ちょうど。
「久保さん退職した?」みたいな連絡が来て。
それで、私はそこの代表理事になって。
すごいタイミング!
そうこうしているうちに、学校ほしいよね、っていう話が出るようになった。
いろんなところでリヒテルズさんの話を聞いてくれる人が増えて、本を読んでくれる人が増えて、学習会が日本中あちこちで起きていて。
「イエナプランいいね、でも、オランダだからできるんだよね」っていう話に、どうしてもなっているので。
日本だってできる、っていうことをちゃんと伝えるには、日本に学校があったらいいねって言っていたんだけど。
その方法を探っているときに、実際に、佐久穂町にイエナプランの学校を作る、っていう流れになって。
そうですか。
はい。
以上、私の生い立ちです。
面白いですね。
イエナプランとか大日向の話以前に、久保さんの人生の話が、めちゃくちゃ面白いです。
なんか、ここにいるのも、すっごい決心して、すっごい決断して、とかいうのはあまりないので。
気がついたら、流れに乗っていた。
そうそうそう。
それぞれが必然で、ここにいる感じがありますね。
機嫌よく死にたい
久保さん、剱岳以降は、山は時々登ってるんですか?全然。

え!?
剱岳登ったっきり、行ってない。
満足しました、あれで。
そうなんですか!
山頂で撮った写真とか、ひどいですもん。
山頂の広さなんてこの部屋ぐらいしかなくて、岩がゴロゴロしてて、足を踏み外したら真っ逆さまみたいな場所で。
「こんなところに登って、私は降りるときどうするんだろう」っていう心配しかしてない顔してます。
(笑)スゴいなあ。
その一度きりの登山が、その後の人生を決めたんだから、ほんとスゴい話ですよ。
夫はもう、ずっと登ってるから、ときどき話は聞いてるんだけど。
私はいつも「んー、うんうん」って相槌うってるだけ。
久保さんのもう1つの目標である、「機嫌よく死にたい」のほうは、どうなりそうですか?
いや、こればっかりは、わかんない。
父が、この夏に亡くなったんですよ。
97歳で。
あ、そうでしたか。
父も山が好きな人で、92歳まで近くの400メートルぐらいの山に、毎日毎朝登ってて。
すごい元気だったんだけど、コロナで登れなくなったかな。
その後もどんどん弱っていって、若干ボケも始まって。
姉と妹がいるので、彼女たちがもう完全に父の面倒を見てくれていて。
姉も妹も、しょっちゅう父に小言を言ってたんだけど、何を言われても父は「そうかそうか」って笑ってたんですよ。
で、私は、姉と妹に「これだけでもさあ、私たちすごい楽させてもらっとうと思うよ」って言って。「ボケてから、どんどん気難しくなる人いるじゃん」って。
そうですね。
私、なんか、すっごいなぁって、やっぱり思って。
父は、若い時なんかもう、言葉で注意する前に、もう手が出ているっていう感じの人だったから。
ご飯の食べ方とか、お箸の持ち方とかがなってないと、パーンって、手叩かれて。
「くっそー!」って思ってましたけども。
(笑)うんうん。
それがなんか、年とってね。
丸くなったんですね。
最後は肺がんで、たぶん相当苦しかったんだけど。
私は、夏休みだったから、ずっとついていられて。
酸素マスクをつけてても、もう、苦しいから自分で取ろうとするじゃないですか。
それを、「苦しいよね」って言って、マスクを剥がしちゃダメだからと思って、口のあたりでこう、持ってあげてたりとかしたら、そういう苦しい中でね、「ありがとう」とか言って。
そういう状況の中で、なんか面白いこと言って、みんなを笑わすとかね。
孫が着てるTシャツに、英語でローリングって書いてあるのを見て、「おおー、ローリング。ははは!」とか笑ったりね。
その次の日です、亡くなったのが。
そうですか。
なんかいい年のとり方ですね。

うん、お父さん良かったねーって思って。
いや、最高じゃないですか。
前の日まで冗談言って。
ホスピスだったから、誰でも泊まって良かったんですよ。
なんかもう、子供に孫にひ孫に、病室に20人ぐらいいて。
みんなでワイワイおしゃべりしているときに「あれ、息してないよ!」って気がついて、そんな亡くなり方で。
そんな眠るように静かに。
そう、なんか、みんなにありがとう、っていう気持ちなんかね。
そう思いながら死ねたら、本当に幸せだなぁっていうのが、あの「機嫌よく死ねたらいいな」っていう目標につながってます。
それはでも、お父さんがいい見本を見せてくれましたね。
うん。
そのためには、やっぱり元気でないとね。
山登り、始めたらいいんじゃないですか?

そうねえ・・。
その前にちょっとね、ウォーキングぐらいから。
あともう1つ、夢って言ったらね。
やっぱり、ここで今、みんなで取り組んでいるようなことが、ちゃんと周りに伝わって。
もう本当に私たち、そんなに奇をてらったことはしてなくて。
目指すところって、すごい普遍的な、人として当たり前のことじゃないですか。
なんかそういう、大人の立ち位置みたいなマインドが当たり前になるようなきっかけになる学校になれたらいいなって。
ああ、そうですね。
これが特別なことじゃなくて、どこの場所でも見られるようになれたらいいですよね。
そうそう。
と、思ってます。

久保さんからは、今日してくれたようなお話を聞きたかったんです。
ありがとうございました。
(2025年10月 佐久穂町「大日向小学校」にて)














第302話 内保亘
第301話 滝沢明日香
第300話 久保礼子
第299話 岡澤浩太郎
第298話 橋本知久
第297話 堀尾寛太
第296話 鴻野祐
第295話 吉崎亜紗子
第294話 古瀬正也
第293話 篠原祐太
第292話 田島由香子
第291話 山崎繭加
第290話 小金沢裕之
第289話 青山光一
第288話 高桑雅弘
第287話 久保田光
第286話 岩上健太郎
第285話 堀場百華
第284話 栗林宏充
第283話 マツダミヒロ
第282話 木下英一
第281話 白井康平
第280話 在賀耕平
第279話 太田泰友
第278話 柄沢忠祐
第277話 鮏川理恵
第276話 伊藤大地・麻里子
第275話 金澤金平
第274話 近谷浩二
第273話 岡田信一
第272話 大野佳祐
第271話 吉田マリア
第270話 齋藤志穂
第269話 富岡直希
第268話 中村尚哉
第267話 塩川浩志
第266話 篠原憲文
第265話 金子久登己
第264話 大島亜耶
第263話 上山光子
第262話 日野秀明・熊谷祐実
第261話 山田貴子
第260話 渡辺正寿
第259話 桑原大輔・あやこ
第258話 田原さやか
第257話 高野慎吾
第256話 安久都智史
第255話 堺大紀
第254話 塚原諒
第253話 鈴木優介
第252話 藤原みちる
第251話 濱野史明
Mike Davis
第249話 松本菜穂
第248話 大竹恭子
第247話 前村達也
第246話 あや
第245話 須田高行
第244話 福原未来
第243話 古谷威一郎・育子
第242話 井出天行
第241話 吉澤希咲子
第240話 北沢正和
第239話 竹内真紀子
第238話 熊本敦子
第237話 飯塚悠介
第236話 ハン・クァンソン
第235話 山本勇樹
第234話 吉川徹
第233話 室伏那儀
第232話 石川伸一
第231話 北幸貞
第230話 石田諒
第229話 永富さおり
第228話 Simeon
第227話 吉田岳史
第226話 茂木重幸
第225話 向井朋子
第224話 大槻美菜
第223話 五十嵐昭順
第222話 山川陸
第221話 小林まみ
第220話 木下史朗
第219話 縄
第218話 ナカイ・レイミー
第217話 岩瀬直樹
第216話 カトーコーキ
第215話 服部秀子
第214話 東孝典
第213話 一戸翔太
第212話 柳澤拓道
第211話 りょうか
第210話 安藤雅浩
第209話 篠塚光
第208話 依田昂憲
第207話 森村ゆき
第206話 大北達也
第205話 伊勢修
第204話 中村里子
第203話 柳澤龍
第202話 細川敦子
第201話 山岸直輝
第200話 中澤眞弓
第199話 高野ゆかり
第198話 四登夏希
第197話 森田秀之
第196話 山﨑恭平
第195話 豊田愛子
第194話 金山賢
第193話 坂本正樹
第192話 江原政文
第191話 マツダミヒロ
第190話 おぎわらたけし
第189話 番匠健太
第188話 高塚裕士
第187話 森田藍子
第186話 黒澤世莉
第185話 橘田昌典
第184話 森村茉文
第183話 梶原隆徳
第182話 松本祐樹
第181話 中村元治
第180話 小園拓志
第179話 あらいみか
第178話 麻生沙織
第177話 豊田陽介
第176話 出口治明
第175話 森岡真葵子
第174話 阿部翔太
第173話 多苗尚志
第172話 石井貴士
第171話 田中美妃
第170話 井手剛
第169話 ひらつかけいこ
第168話 住田涼
第167話 松田大夢
第166話 藤田伸一
第165話 田口師永
第164話 大野佳祐/豊田庄吾
第163話 ウサギノネドコ
第162話 小野寺洋毅
第161話 はる@よつば
第160話 森村隆行
第159話 篠原祐太
第158話 ナカムラケンタ
第157話 大野雅子
第156話 クラリスブックス
第155話 紀乃のりこ
第154話 川島優志
第153話 木村孝・真由美
第152話 佐藤明日香
第151話 大槻美菜
第150話 吉村紘一
第149話 森村ゆき
第148話 辰野まどか
第147話 大橋南菜
第146話 アラ若菜
第145話 宮原元美
第144話 源侑輝
第143話 山本慎弥
第142話 熊崎奈緒
第141話 山中思温
第140話 徳永圭子
第139話 木戸寛孝
第138話 上村実生
第137話 吉田秀樹
第136話 平世将夫
第135話 杉なまこ
第134話 田村祐一
第133話 小橋賢児
第132話 竹沢徳剛
第131話 草野ミキ
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第129話 竹田舞子
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第105話 中村洸祐
第104話 竹下羅理崇定部
第103話 田中美和
第102話 本田三佳
第101話 門松崇
第100話 浅見子緒
第099話 たきざわまさかず
第098話 大野佳祐
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第096話 山本達夫
第095話 本田温志
第094話 内田洋平
第093話 沢登理永
第092話 辰野しずか
第091話 マツダミヒロ
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第089話 大久保有加
第088話 谷澤裕美
第087話 笠井有紀子
第086話 高杉なつみ
第085話 菅野尚子
第082話 小座間香織
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第080話 藤田伸一
第079話 森田英一
第078話 新井有美
第077話 神田誠
第076話 紺野大輝
第075話 花川雄介
第074話 間庭典子
第073話 木村由利子
第072話 有紀天香
第071話 山崎繭加
第070話 佐藤孝治
第069話 金澤宏明
第068話 山田康平
第067話 西野沙織
第066話 川端利幸
第065話 岩下拓
第064話 清水宣晶
第063話 高橋慶
第062話 山本麻子
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第057話 多苗尚志
第056話 梅沢由香里
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